近況報告その2〜バレエの発表会〜


すっかり近況でもなくなってしまった話。
5月にバレエの発表会に出た。
これ、実は自分のなかではものすごいこと。だって11年ぶりだったから。


そもそもバレエと私とのつながりは長く(笑)、語り出すと少々長くなる。
幼稚園の卒園アルバムに書かれた将来の夢は「バレリーナ」。
教育TVでときどきやっていた劇場中継がすてきで、よく廊下でフワフワ踊っていた。


習いたいという私に親は「小学校に入ったらね」と言ったが、数年経っても
いっこうに気配がない。3年生のときに、あの約束どうなったのと聞くと
「あら、覚えてたんだ」と返ってきて、ようやくあるスタジオに通うことになった。


数ヶ月後の発表会は「まだ早い」と親のOKが出ず、不参加。
そのとき客席から見たのが、思えば初めての生バレエだったのだろう。
カラフルな衣装やライト、惹きつけられた美しい踊りを今でも覚えている。


小学校の間は週2回、中学からは週3回レッスンに通い、発表会も毎回参加した。
中学生の頃は練習が少し厳しくなり、もともと根性のない私は定期試験前になると
よく休んだし、サボったこともあったと思う。
それでも友だちとの時間が楽しくもあり、今思うとまあ、そこそこやっていた。


しかし中学を卒業すると、友人がごっそりとやめてしまった。
みんな新しい部活や、学校生活を優先するようになったのだろう。
私は大人に混じってレッスンに出たが、発表会では同レベルの仲間がいなくて、
上手な先輩と一緒の作品に(たぶん仕方なく・笑)混ぜてもらった。


おそらく1番一所懸命踊っていたのは大学生の頃。
授業のない日は午前中のレッスン(プロやセミプロの生徒さん&先生がいる)に出たり
夕方のレッスン後に遅くまで練習したりしていたと思う。
のちのちまで連絡を取り合う友人ができたのもこの頃だった。


けれど習いはじめてからは不思議と「バレリーナになりたい」とは思わなくなっていた。
中学高校は演劇部だったので、ミュージカルやお芝居には興味があったけれど、
上手な先輩やプロを目指す同世代たちの踊りを見るうちに、たぶん自然と、
自分はそこまでのレベルには達しないと納得していたのだろう。


社会人になって、時間的にも金銭的にもレッスンに通うのが難しくなり、
スタジオから足が遠のくようになった。ひとり暮らしをしていた頃は、
運動不足を感じて近所のスポーツクラブに入会したが、ジムのトレーニングや
プールがあまり好きではないと気づくのにさほど時間はかからなかった。


数年のブランクを経て、またレッスンに通い出したのが20代も後半。
だいぶレベルは落ち、発表会でもほんの少ししか踊れなかったけれど、
それでも自分はバレエが好きなんだなぁと実感した時期と言えるかもしれない。


結婚して1年経とうという頃、同じく大好きだったスキーで膝をケガし、
その後子どもが生まれ、ロンドンに引っ越し、またずブランクが空いた。
けれども「自分が無理なくできる運動」という自覚ができたおかげで、
ほんの週1程度でもいいからレッスンを再開しようという気持ちになった。


昔ブログに書いたが、ロンドンでのすてきな先生との出会いも大きかった。
続けたければ、50歳でも60歳でも踊っていてもいいかもと、心が軽くなった。


そして上海。
しばらくは相変わらず、子どもを預けて週1回のレッスン通いが精一杯。
タァが幼稚園に通い出すようになってようやく、練習量を増やせる見通しができた。
それが去年の暮れのこと。


発表会は無縁と思っていた私に、大人になってバレエをはじめた仲間が言った。
「昔からやっていた人は、どうしても1番踊れた時の自分と比べちゃうのよねぇ。
いいのよ、今の、オバサンの自分にできる踊りをすれば〜(^^)ノ」


ああ、そう。本当にね。
もういい年なんだから、この年なりに楽しまなきゃ!


思い切って申込書を出し、年明けに演目が発表され。
「『白鳥の湖』第1幕のパ・ド・トロア」と決まってかなり動揺したが、
動画を探したり、リハーサルの様子を携帯で撮ったりという、
11年前には気軽にできなかったワザを使い、自分なりに勉強した。


しかし実際の練習は、想像以上にハードだった。
何しろ自分の思うように、身体がまるで動かない!!(^^;;;


はじめて自分1人のパートを通して踊った日は、音楽に置いてきぼりにされた。
家に帰るとふくらはぎがパンパンで、子どものオムツ替えにも支障をきたす。
ごめんねと謝りながら夕方30分もお風呂に入り、それからやっと夕食を作った
日も何度もあったし、月に2回はマッサージ通い。
練習量はさほど多くないのに、フラフラだった。


さらに本番まであと3週間というとき、古傷のある左足首がガチガチになり、
くるぶし上あたりに「ピキッ」という痛みを感じたかと思うと、
以後、まるでジャンプができなくなってしまった。


まずい。これでは発表会で踊れない。


苦肉の策は、まず勇気を持って1週間の休養。
あとはソロリソロリと最低限からスタートし、照準を本番に合わせて練習。
ターンは冒険せず、動けないときのための簡単な振付を先生と相談。
通常のレッスンでも、跳躍はバーを使って。


20歳のときはできなかった、中年のカラダ向けの対策&予防策(笑)。
しかしこれが功を奏して、ゲネプロと本番をなんとか迎えることができた。


日本からは姪がベビーシッター役を兼ねて遊びに来てくれ、
2日間、私はどっぷりバレエ漬け。
小さい子のメイク姿も、舞台袖の薄暗さも、緊張感も高揚感も、
懐かしさと再び体験できる喜びとで、一つ一つ楽しくて仕方がなかった。


ケガを抱えた41歳の踊りは、DVDや写真を見れば不満もあるけれど、
その時間を心から楽しめたんだから大満足と言っていい。


そしてこれはゲネプロでのこと。
舞台の横で見ていた1人の女の子が、私が袖に入った瞬間、こう言ったのだ。


「わぁ、すてき・・・。」


これから踊りの楽しさを知っていく小さな子に、そう感じてもらえたことが
本当に嬉しかった。今の私にもまだ、ちょっとはそんな力があったなんて。


日常の練習不足を反省して、今はだいたい週3回、レッスンに通っている。
落ちた筋力、すっかり反れなくなった背中、課題はいろいろあるけれど、
自分の身体に集中している時間が心地いい。


もう少し、続けていこうと思う。

近況報告その1〜母のこと〜

2つ前に重い話題で母の話を書いて、そのまま放置してごめんなさい。
実は3月からしばらくとても忙しくなり(その2で報告予定)、
ブログアップがこれまでに増してできず・・・。


6月はじめに身内の結婚式に参列するため、3泊4日の一時帰国をし、
その際に母の見舞いも行けたので、まずはその話を。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



倒れて搬送された救急病院に、母はその後もしばらく入院していた。
私が上海に戻ってから少し経って、目が開いたと連絡をもらった。
この先も目覚めないかと思っていた状態からの、大きな前進だった。


代わる代わる、時間があれば見舞う姉たちから、毎日のように報告が入る。
おだやかな顔だったとか、微熱が続いているとか、むくみが取れてきた、など。
けれども、徐々にみんな理解しはじめる。
昔のように自力で食事をしたり、話したりするのは不可能に近いということを。
退院して自宅療養することすら困難だということを。


1ヶ月を過ぎたあたりから、転院先を検討するようにという話が出始めた。
私を含め、身内は動揺した。


・・・この状態で病院を移る?


緊急手術は成功。でも母は、どう見ても回復したとは言えない。
それでも日本の医療のあり方では、救急病院に長期入院し続けることはできない。
この現実にあらがうことはできず、いくつか検討ののち、母は5月に転院をした。


一時帰国した私が訪ねたのは、おそらく母の終の住まいとなる病院だった。
清潔感があり、スタッフの雰囲気もよい、落ち着いたところだった。
本来は病を治すはずの場でありながら、入院者の多くがここで最期を迎えるとは
少し皮肉だ。しかし今の高齢化社会、こういう施設の存在意義は大きい。


まぁそれはそれとして、見舞った母は、私の予想をはるかに超えていた。
はるかに、いい意味で。


なんせ最後に見た姿はまったく動かない母だったのだ。
3ヶ月経って、声をかければ目を開き、声のするほうを向こうとし、
そして時折、笑みを浮かべるのを見て、驚かないといったらウソというものだ。


そして1番驚いたのは、私が5月に参加したバレエ発表会のゲネプロの
動画を見せたら、はっきりと嬉しそうにニッコリしたことだった。


「あ、うそ、わかる?」


えへへと照れながら、母に見せたかった動画に反応してくれたことに、
心の底から嬉しくなった。たとえ話しができなくてもね。


飛行機の中で見た『すーちゃん、まいちゃん、さわ子さん』のなかで、
寝たきりになった祖母のことを話す、さわこさんの母のことばが胸に残る。
正確ではないけれど、それはこんな内容。


「・・・こんなふうになっても、1日でも長く、生きてほしいと思うのよねぇ。」


1度だけ短い時間、子どもたちも見舞いに行った。
母が実家にいないことを不思議に思っていたタァも、彼なりに納得したらしく、
「ばぁまちゃんは、びょういんでねんねしてるのよー」
と、それ以後言うようになった。


母にとって、今の姿はまるで望んでいなかったものかもしれない。
それでも今、彼女の周りにいる人たちは、あとどれぐらい残されているか
見当もつかない時間を、大切に共有しようとしている。


これを読んで少なからずショックを受ける人もあると思うけれど、
私は大丈夫だし、身内もみんな自分たちの置かれた立場のなかで
母との時間を紡ぎ出しながら、毎日しっかり生活しているのでご安心を。


母が苦しいことが少ないように、ちょっとだけ祈っていてください。

映画DVDの感想覚え書き(4月後半〜6月前半)

暇を見つけてはDVD鑑賞。大抵は週末、子どもたちが寝たあとの時間。
一緒に寝ちゃって、ドラマを1話だけという日も多いけど、最近がんばってるかも。
記憶が正しければ、見た順に。


*『アウトレイジ ビヨンド』☆☆☆ (あ、これは3月に飛行機で見たんだった。)
 ものすごい豪華キャスト。こんなにすごい人たちが集まって、ほとんどみんな
 ヤクザでなんなのと思ってしまう。1作目に引き続き、目の離せない展開。
 作品としてすごいんだけど、何度も見たいものではない。・・・好みの問題ね。


*『KOTOKO』☆☆☆
 見始めて5分しないうちに、あと何分で終わるんだろうと思った。
 それは見ていてどうしようもなく苦しいから。
 普段、本能的に鈍くしている自分の脆い部分の感度をグワッと上げられ、
 アイスピックか何かでかさぶたをはがすように刺激される。
 Coccoの演技が演技でないようにすれすれすぎる。
 見終わることでやっと現実に戻ってこられる。2度見ることは、ないかも。


*『孤高のメス』☆☆☆
 堤真一、夏川結衣、余貴美子、柄本明・・・、まったく不安を抱かずに
 見ることができる、大好きな俳優さんたち。特に余貴美子さんがよかったな。
 手術シーンをなるべく忠実に大切に撮ろうとしていた誠実さが伝わってくる。


*『The Hobbit: An Unexpected Journey(ホビット:思いがけない冒険)』☆☆☆☆
 懐かしくて見るだけで嬉しくなってしまうホビット村。
 フロド、ガンダルフ、ガラドリエルさま、出てくるたびにニヤニヤした。
 期待を裏切らないスケール。今後の期待を込めて、ちょっと甘めの☆4つ。


*『落語物語」☆
 ひさびさに出てしまった、見終わって「あぁ、時間をムダにした」と思った作品。
 映画として成り立っていないというか、入れたいエピソードがあれもこれも
 ただペタペタ張り合わされている感じで、深まらない。
 たくさんの落語家が出演しているけれど、確認できるのは、プロの落語家は
 プロの俳優ではないのだということ。ああ残念。田畑智子ちゃんに☆1つ。


*『海燕ホテル・ブルー』☆☆
 実はこれも見終わるまで時計をちらちら見てしまった。
 『アウトレイジ』シリーズを見てしまうと、どうしても中途半端に映る展開と演技。
 「若松監督が思いきり遊んで撮った」そうだが、うーん、遊びか・・・。
 井浦新くんのチンピラぶりに☆を2つ。かなり甘い。


*『鍵泥棒のメソッド』☆☆☆☆
 ここまできてやっとホッとできた、満足度の高い邦画。(^^;;
 脚本がよくねられている上に、今をときめく演技派・堺雅人&香川照之の魅力全開、
 さらに広末涼子ちゃんが透明感あふれる華となってキラキラしてる。
 最後までニヤリとさせられる作品。荒川良々さんが怖くなくて、そこがまた笑える。


*『Marvel's The Avengers(アベンジャーズ)』☆☆☆☆☆
 Marvelコミックのヒーロー集結!ということしか予備知識なく、軽い気持ちで見て
 ものすごく楽しんでしまった。ロバート・ダウニーJr.のアイアンマンが秀逸。
 でも他のヒーローたちも1人1人魅力あふれていて、まだ見てないから見なきゃ!って
 思わされてしまう。やっぱりSFヒーローアクションは私にとって映画の原風景(笑)。
 完璧な娯楽作品に☆5つは悔しい気もするけど、おもしろかったからいいじゃない。


*『すーちゃん、まいちゃん、さわ子さん』☆☆☆ (これも飛行機で鑑賞)
 柴咲コウ、真木よう子、寺島しのぶがそれぞれに、しっかりと味のある30代の
 独身女性を演じている。この気持ちわかるなぁとか、ここは今の自分に近いとか、
 そんなことを考えつつ、ていねいな撮影の美しさに目を奪われる。
 男性が見ておもしろいと思うかどうかは、よくわからない。


*『Iron Man(アイアンマン)』☆☆☆☆
 あわてて(笑)最初から見直し。天才トニー・スタークの遊びっぷりが豪快。
 武器の製造をしている会社社長がテロに巻き込まれて方針を一転するところは
 どうにもマンガっぽい単純さだけれど、あまりそれを感じず魅入っていけるのは
 ロバート・ダウニーJr.の力なんだろうなぁ。彼の目がすてきなのですよ。ふふ。


*『『Iron Man 2(アイアンマン 2)』☆☆☆
 3作続けて見てしまうと、2作目はどうしても評価が少し下がる。
 トニーの作ったスーツの悪用の危険性、人間の愚かさなど、よく見るような要素が
 多いし、それ故に爽快感が減るせいかな。ミッキー・ロークもよかったけれど、
 スカーレット・ヨハンソンの活躍が魅力的(ちょっと友だちに似ているのよね^^)。


*『Intouchables(最強のふたり)』☆☆☆☆☆
 最初から作品に見ている人をクッと引きこんでいく。目の前の2人の笑顔が
 どうやって積み重ねられた時間によって生まれているのか、気になる。
 重い素材が、フレンチの小粋なユーモアの中で少し重力を軽くしてふわりとし、
 でも見終わった後にしっかりと心に残っていく。笑顔の重みかもしれない。


*『Flight(フライト)』☆☆☆
 ↑とは逆に、重いものがレンガのように、見る人の心に積まれていく感じ。
 デンゼル・ワシントンとロバート・ゼメキスというタッグはすごいけれど、
 これに限らず、20年近く前の『男が女を愛する時』にしても、数年前の
 『レボリューショナリー・ロード』にしても、けっこうな大物の映画人が
 アメリカ合衆国の病み具合を訴えてくるよなぁと思う。重いです。

眠れる母

「母が倒れて救急車で運ばれた」


と携帯に姉からのメッセージが届いたのは、まさにあと1時間で
サァのピアノの発表会が始まろうという、リハーサルの真っ最中だった。
連絡の取りやすい姪のMoちゃんに、了解した旨とこちらの事情を伝え、
サァがこれまでの成果をぞんぶんに発揮できるよう、見守ることに集中した。


こういう連絡が入って思い出すのは、
6年前の初夏、父が亡くなったときのことである。
当時私はロンドンにいて、真夜中の電話に身内の不幸を感じ取った。
その頃に比べて上海は日本にぐっと近いけれど、気軽にかけつけられない
という点では、境遇はさほどかわらない。


 ―出かけるバスの中で倒れたらしい。
 ―「*△」という状態で緊急手術をすることになった。


家に戻ってからも情報が少しずつ入るのみで落ち着かなかったが、
診断名をネットで検索して、自分なりに状況を把握した。
子どもたちが寝静まってから、スカイプで詳しい話を聞く。
手術は無事終わったらしいが、どうなるかわからないという。


事態はどう動くのだろう?
遠くにいる身としては、何もできないのがもどかしい。
家にいても気が滅入るばかりだったので、翌日の午後はバレエに行った。
自分の身体に集中していると、余計なことを考えずにすむ。
けれどふと我に返ると、不安が私を呑みこもうと大口を開けており、
にらみ返して踏ん張る努力を何度もしなければならなかった。
学校や幼稚園から帰った子どもたちの顔を見ると、気が紛れた。


訃報が入るまで、私はここを動けないのかな。
ぼんやりと思っていたとき、パートナーが一時帰国へ背中を押してくれた。
家族の緊急時に帰れる制度があるので、それを使ってはどうかと。


そうして母が倒れてから3日後、私は子どもたちを連れて日本に戻った。


母のいない実家はひんやりとしていた。
置き去りになったままの寒い日用のダウンジャケット、
よくパジャマの上に羽織っていた、ベッドの上の黒いカーディガン、
1つ1つがとげのように目に刺さった。


Moちゃんが子守りのヘルプに来てくれており、見舞いが一段落した姉も
実家に戻ってきたので、交代するように夕方の病院へ。
向かった集中治療室という場所は、一般人の私には不慣れすぎて、
中に入るまでの1つ1つの動きが挙動不審者のようにぎこちなかった。


中待合室で数分待った後、通される。
ナースステーションの奥、スタッフから1番目の届く場所へと目を向ける。


あ、いた。


いくつもの医療機器を背後に配置した巨大なベッドに、
150cmもない小柄な母が、埋もれるように眠っていた。
何本もの管が周りを取り囲むようにのび、その流れを管理されていた。


「きたよー」と声をかける。
すごく痛かったね。大変だったね。
姿を見てホッとした瞬間に涙が出てきた。
返事のない相手にボソボソと話しかけ、額や腕に触れた。
何より、体温のある母に会えたことを感謝した。




・・・母はいつ、目覚めるのか?


手術の後、身内の全員が気にかけていたのはそのことだった。
私たちは3泊4日だけ滞在していた(サァも1度だけ面会できた)が、
残念ながらその間に目を開けることはなかった。


数日後、何回か目を開けたというメッセージが届いたけれど、
「目を開ける」という動作と「目覚める」こととの間には
途方もない隔たりがあることを思い知らされた。


母の脳は、倒れてから酸素が充分に運ばれない時間が長かったために、
「覚醒」のために必要な鍵を水の中に失ってしまったようだ。


今、血液は確かに身体をめぐり、呼吸は静かに繰り返され、
消化器官は入ってきた栄養分を分解し吸収し、母を生かし続けている。
そして娘たちは、この姿が母の望むものではないことを痛いほど知っている。


嵐のような数日が過ぎ、しかしその前と同じように時間は流れていて。


私たちはこれからどうすればよいのか。
「やりたいこと」を選べばいい自分の人生、いやそれすら難しいのに、
物言わぬ母の思いに寄りそうなどという難題が解けるというのだろうか。


実家の母の寝室には、両親とサァが冬の桜並木の下で笑っている写真がある。
あの桜を一緒に歩く日を望むのは、非現実的なのかもしれない。
それでもやはり、そんな日が来ればいいのにと思ってしまうのだ。


小さな母は、今も静かに呼吸している。



(↓「いつかいっしょにお花見がしたいな」とそえて病室に置いてきたサァの作品。)


モルディブ旅行4 元旦の太陽

早起きは三文の得とはよく言ったもので、時差ボケのおかげとはいえ、
宵っぱりの私が日常生活ではまず拝むことのない日の出。
そして日本にいたときもたぶん1度しか見たことのない初日の出。


早くに目が覚めて、大して深く考えもせずに砂浜に立った。はじめは
「けっこう雲があるから、初日の出にはちょっと残念かな〜」
ぐらいの思いで見ていた。
・・・そしたら。


説明不要。以下、5:59、6:04、6:07の写真を連続でお届け。





なんて迫力!なんてパワー!!
みるみるうちに染まっていく空の下でポツンと1人、立つ私。


ハッと我に返り、あわわと部屋に戻ると、ちょうどパートナーとサァが目覚めていて。
でも声をかけて戻ったときには、すでに雲の色は消えていた。


古き太陽信仰において、とりわけ日の出の太陽は特別な畏敬の対象だったと
聞いたことがあるけれど、あぁホントに。語ることばが見つからない。


私は出かける前にたまっていた疲れと&3度の飛行機の影響で、
耳の疲れを筆頭にカゼっぽい症状を自覚し、やや控えめに遊んだ1日。
でも朝、一瞬のうちに私を覆ったこの色の力は、これから先何年も忘れられない、
大きすぎるくらい大きなものとなった。


こんな体験がまたあるといいなぁ。
切に、そう思わずにはいられなかった元旦。

モルディブ旅行3 大晦日は夜明けとともに 


モルディブと中国の時差は−3時間。
明け方4時過ぎぐらいから何となく目が覚めてしまい、何度となく
うとうとしながら夜明けを待つ。


泊まっている部屋を出ると数メートルで砂浜なので、6時を待って
こっそり外に出る。海からの日の出を見るのは久しぶり。
砂浜に立って見るのは初めてかな?


子どもたちが寝ているすきに散歩に出ることを思いつき、カメラ片手に再び外へ。
砂の上を歩く大きな花アブ(かな?)に遭遇したり、ヤドカリを見つけたり。
島の南端の砂浜には、何か生き物が潜むと思われる大きな穴がポコリポコリと
空いていて、その穴の近くには砂をかきだした後が(↑の写真)。
何がいるんだろう?巨大なヤドカリ???



実際、砂の上には何ものかが歩き回った後(↑)が無数に残っている。
見てみたいんだけど、出てきたら「きゃ〜〜!!!」かも?(笑)


波打ち際に魚の群れが遊びに来ていた。



近寄ってみたら、初めて見るこんな魚。ピノキオみたい。



そんなふうに自然の1つ1つにワクワクしながら部屋に戻ると、パートナーと
サァが起き出していたので、私はサァを連れてまた散歩(彼女はそれから
朝ごはんまでずーっと外にいて、砂や植物で遊んでいた)。
一方、パートナーは砂浜をランニング。
旅の疲れもなんのそので活動しまくってる親子である(笑)。
タァだけはよく寝ていた。幼児は場所が変われどマイペースなのね・・・。


でもそんなタァ、1番おかしかったのが落ち葉への反応。
普段、家の床にゴミや髪の毛が落ちていると目ざとく見つけて
「なんとかして」と指示する彼なので、真っ白な砂の上のあちこちに
葉っぱが落ちているのがものすごく気になってしかたがない。
私に取るように言うんだけど、あっちにもこっちにもで、きりがなくて、
ちょっとパニックになりかけていた(笑)。


砂浜を歩くのも苦手。海に出るとき以外はどこに行くのも常にだっこ。
ざらざらした感触が楽しめるようになるのは、もう少し先らしい。


午前中はシュノーケリングをしたり、プールに入ったり。
午後は貝掘りや砂遊び。1日ゆっくりと遊んだ。



レストランでは、大晦日の特別ディナービュッフェの準備が進められており、
飾りつけに用意された風船が海の浅瀬にこぼれ落ちてきて、それを歩いて
拾いに行けてしまうことにサァが大喜び。
何度も拾って、風船おじさんかってほどに(古い?^^;)いくつも抱えて
レストランまで届けに行っていた。


そのビュッフェの様子はこんな感じ(↓)。



通常でも19:30スタートとやや遅い夕食なのに、この日は20時開始だったので、
朝早くから起きていたわが家は「腹ぺこ待ちぼうけ」って状態だったけれど、
楽しい気分でモリモリ食べて、10時には全員パタンと寝てしまったのだった。


年越しそばもなく、紅白も行く年来る年も見ない(あ、これは2011年もなかった)、
いつもとまったく違う大晦日。大晦日そのものが非日常なのに、さらに違うって
なんだか不思議よね(笑)。

モルディブ旅行2 青の美しい場所へ


旅行の日付を入れてなかった(笑)!
出発したのは12月29日。
前夜現地時間で夜中の1時近くに寝たにも関わらず、翌30日は朝6時起床。
7時半にチェックアウトして再び空港へ。


移動の仕方が現地風でおもしろくて、そのへんを走っている(ように見える)
空港行きのバスにスタッフが声をかけて止め、お客さんを乗せるのだった。
来るときはホテルの車に乗ったと思っていたのだけれど、それも同じような
空港専用の乗り合いバスだったらしい。


さてリゾートへの水上飛行機の時間は、前日の夕方にならないと決まらない。
水上飛行機会社の規定としては、原則以下の2つしかないらしい。
1.日没前に着いた旅行客はその日のうちにリゾートへ運ぶ
2.その日に離陸するフライトに乗る客は確実に空港へ運ぶ
細かい便数や時間は、乗客の人数がはっきりしてから決まるのだろう。


というわけで空港へ着いて、水上飛行機のチェックインカウンターを教えてもらい、
荷物の重量を量って手続きをすませると、あとは離着陸場所にバスで移動して、
リゾート行きの出発時間まで待つのみ。フライトまでは1時間ちょっとあった。


ツアーに入ったお客さんは、ギリギリまで前夜泊まったホテルで待てるとか、
豪華なリゾートは専用のラウンジで待つとか、そういうことができるらしく、
待合スペースにはわずかな人しかいない。わが家は航空券もホテルも個人手配なので、
これからはモルディブ的時間の流れに身を任すしかないなぁと、木の椅子に腰を下ろす。


朝8時過ぎの段階ですでに日差しは強くて、波に揺られて離陸を待つ飛行機を横に、
子どもたちは興奮した声を上げながら、飽きもせず岸近くに集まる魚を探した。


9時15分すぎに飛行機へ案内される。
スーツケースが運び入れられ、手荷物も1カ所にまとめられ、エアコンのない機内へと
乗り込むと、すでに汗だく。タァは自由を奪われた上に暑いから、機嫌が悪い。
抱っこしている私は「美しい海を空からのんびり眺める」にはほど遠い状態。(^^;
それでも爆音とともに水上飛行機がふわりと空へ浮かび、珊瑚礁の青と碧の世界が
一面に眼下に広がると、息を呑まずにはいられなかった。


30分弱の飛行時間で写真のような乗降場所近くに着水。
ドーニと呼ばれる平底の船でリゾートの迎えが来ており、乗り換えて島へと向かう。
そして船はゆっくりと珊瑚礁の浅瀬にかかる桟橋へ。



桟橋を渡った先、人の歩くところは、ほぼ一面、白い砂。
スタッフ、そして宿泊客の多くが、どこに行くにも裸足で歩いている。
砂の上を歩き慣れないタァはほぼ最後までだっこだったが、サァはいち早く馴染んで
裸足で走り回っていた。


ランチのあと、すぐに水着に着替えて飛び出したいサァをなだめて、周辺を散策。
1周15分程度でまわれてしまう小さな島は、緑がいっぱい。
島の東側が長い砂浜になっていて、木の上のあちこちで初めて聞く鳥の声がする。
西側のハウスリーフに面した堤防には、たくさんのカニが張りついていた。


過度の日焼けを避けるため、3時近くになってようやく海へ出る。
気温は30℃ぐらいなので、水に入ってしまえば気持ちがいいのだが、
まぶしさに目が慣れるまでにしばらく時間がかかった。


何をしたかもよく覚えていないほど、あっという間に時間が過ぎ、18時、日没
(赤道に近いから日の出と日の入りが6時なのだと、パートナー談。なるほど)。
明日から、いっぱい遊ぼう。