眠れる母

「母が倒れて救急車で運ばれた」


と携帯に姉からのメッセージが届いたのは、まさにあと1時間で
サァのピアノの発表会が始まろうという、リハーサルの真っ最中だった。
連絡の取りやすい姪のMoちゃんに、了解した旨とこちらの事情を伝え、
サァがこれまでの成果をぞんぶんに発揮できるよう、見守ることに集中した。


こういう連絡が入って思い出すのは、
6年前の初夏、父が亡くなったときのことである。
当時私はロンドンにいて、真夜中の電話に身内の不幸を感じ取った。
その頃に比べて上海は日本にぐっと近いけれど、気軽にかけつけられない
という点では、境遇はさほどかわらない。


 ―出かけるバスの中で倒れたらしい。
 ―「*△」という状態で緊急手術をすることになった。


家に戻ってからも情報が少しずつ入るのみで落ち着かなかったが、
診断名をネットで検索して、自分なりに状況を把握した。
子どもたちが寝静まってから、スカイプで詳しい話を聞く。
手術は無事終わったらしいが、どうなるかわからないという。


事態はどう動くのだろう?
遠くにいる身としては、何もできないのがもどかしい。
家にいても気が滅入るばかりだったので、翌日の午後はバレエに行った。
自分の身体に集中していると、余計なことを考えずにすむ。
けれどふと我に返ると、不安が私を呑みこもうと大口を開けており、
にらみ返して踏ん張る努力を何度もしなければならなかった。
学校や幼稚園から帰った子どもたちの顔を見ると、気が紛れた。


訃報が入るまで、私はここを動けないのかな。
ぼんやりと思っていたとき、パートナーが一時帰国へ背中を押してくれた。
家族の緊急時に帰れる制度があるので、それを使ってはどうかと。


そうして母が倒れてから3日後、私は子どもたちを連れて日本に戻った。


母のいない実家はひんやりとしていた。
置き去りになったままの寒い日用のダウンジャケット、
よくパジャマの上に羽織っていた、ベッドの上の黒いカーディガン、
1つ1つがとげのように目に刺さった。


Moちゃんが子守りのヘルプに来てくれており、見舞いが一段落した姉も
実家に戻ってきたので、交代するように夕方の病院へ。
向かった集中治療室という場所は、一般人の私には不慣れすぎて、
中に入るまでの1つ1つの動きが挙動不審者のようにぎこちなかった。


中待合室で数分待った後、通される。
ナースステーションの奥、スタッフから1番目の届く場所へと目を向ける。


あ、いた。


いくつもの医療機器を背後に配置した巨大なベッドに、
150cmもない小柄な母が、埋もれるように眠っていた。
何本もの管が周りを取り囲むようにのび、その流れを管理されていた。


「きたよー」と声をかける。
すごく痛かったね。大変だったね。
姿を見てホッとした瞬間に涙が出てきた。
返事のない相手にボソボソと話しかけ、額や腕に触れた。
何より、体温のある母に会えたことを感謝した。




・・・母はいつ、目覚めるのか?


手術の後、身内の全員が気にかけていたのはそのことだった。
私たちは3泊4日だけ滞在していた(サァも1度だけ面会できた)が、
残念ながらその間に目を開けることはなかった。


数日後、何回か目を開けたというメッセージが届いたけれど、
「目を開ける」という動作と「目覚める」こととの間には
途方もない隔たりがあることを思い知らされた。


母の脳は、倒れてから酸素が充分に運ばれない時間が長かったために、
「覚醒」のために必要な鍵を水の中に失ってしまったようだ。


今、血液は確かに身体をめぐり、呼吸は静かに繰り返され、
消化器官は入ってきた栄養分を分解し吸収し、母を生かし続けている。
そして娘たちは、この姿が母の望むものではないことを痛いほど知っている。


嵐のような数日が過ぎ、しかしその前と同じように時間は流れていて。


私たちはこれからどうすればよいのか。
「やりたいこと」を選べばいい自分の人生、いやそれすら難しいのに、
物言わぬ母の思いに寄りそうなどという難題が解けるというのだろうか。


実家の母の寝室には、両親とサァが冬の桜並木の下で笑っている写真がある。
あの桜を一緒に歩く日を望むのは、非現実的なのかもしれない。
それでもやはり、そんな日が来ればいいのにと思ってしまうのだ。


小さな母は、今も静かに呼吸している。



(↓「いつかいっしょにお花見がしたいな」とそえて病室に置いてきたサァの作品。)